第165回
山崎 昶先生が答える化学質問箱
回答者プロフィール
やまさき・あきら
1937年生まれ.東京大学理学部化学科卒業.
元日本赤十字看護大学教授.
おもな著書に「化学の常識なるほどゼミナール」「落語横丁の化学そぞろ歩き」「機密保持と化学」「ミステリーの毒を科学する」,訳書に「化学するアタマ」「先生を困らせた324の質問」「サイエンティスト ゲーム」「続 サイエンティストゲーム」など多数.
山崎 昶先生が答える化学質問箱
第165回 (2016/11/25更新)rss
Q.

「化学(chemistry)」の語源はアラビア語の「al-khimiya」であると化学史の本には記してあるのですが,これとは別に,何ともっと前の東洋起源なのだという説があるのだそうです.いつ頃西方に伝わったのでしょう?

Q.

お米(イネ)には糯米と粳米がありますね,他の穀物類でも同じような偏位があるのでしょうか?

Q.

わが国の鉄鉱石は,江戸時代まではほぼ需要をまかなえるほどの供給量があったといわれるんですが,本当にそんなに採掘可能だったのでしょうか?

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Q.

 「化学(chemistry)」の語源はアラビア語の「al-khimiya」であると化学史の本には記してあるのですが,これとは別に,何ともっと前の東洋起源なのだという説があるのだそうです.いつ頃西方に伝わったのでしょう?

A.

 これは英国ケンブリッジ大学の科学史の教授であったジョセフ・ニーダム博士の主張された説のことだと存じます.ニーダム博士は,古典漢文はもとより現代中国語も巧みに操り,第二次大戦中は当時四川省にあった,蒋介石の政府に軍事顧問(実は諜報担当だったとも言われますが)として派遣され,結構長期間に亘っての滞在の傍ら,当時の中国の学者各位との交流を深め,数多くの原典を渉猟して,それまでの欧米の先生方のように英訳された文献だけではダメで,努めて原典を見なくてはいけないと強く主張された事は有名であります.
 さて,この錬金術と煉丹術との関連についてのニーダム教授の説は「宋の時代(アラビアで錬金術が隆盛を極める頃とほぼ同じ),には,それまで漢土の帝王や貴族達がよく服用していた『金液』の発音は,ほぼ『kim-i』だったと思われるが,当時すでに南海経由で華南とアラビア語圏との間の南海貿易はかなり盛んであり,いろいろな情報の流通も盛んとなっていた.したがって,この『kim-i』が錬金術の『al-khimiya』の語源であることは十分な可能性をもっている」というのです.
 つとに唐末期の黄巣の乱でも,現代の広州付近に居住していた回教徒が10万人の桁で犠牲になったといわれたほどですから,当時の交易の隆盛振りが推察可能で,確かに,火薬や紙の製法と同じように,この言葉の東洋から中近東への伝播があってもおかしくないように思えます.ですが,科学史の分野は保守的(守旧的?)な傾向が強いので,なかなか世界の大権威たちの取り上げるところとはなっていないのが現実のようです.

Q.

 お米(イネ)には糯米と粳米がありますね,他の穀物類でも同じような偏位があるのでしょうか?

A.

 イネの場合,糯(もち)と粳(うるち)は遺伝子座の一つだけの違いだということが判明しています.粳米の澱粉はアミロースとアミロペクチンの両方で構成されていますが,糯米の方はほとんどがアミロペクチンのみでできています.突然変異としても比較的起きやすい種類のものなのです.今のわが国で作付けされている稲の大部分は粳米種になっていますが,はるか昔はかなり違っていたという説もあります.現に弥生時代から平安朝ぐらいまでの炊飯は,現在のような炊き干し方式ではなく,甑(こしき)を使って「強飯(おこわ)」を炊く方が主でしたから,現在よりも糯米の作付けの割合が多かったかも知れません(平成25年度の作付面積〔公益社団法人「米穀支援機構安定供給確保機構」のデータ〕では,粳米96.6%,糯米3.5%,醸造用米0.9%となっています).
 ただ,食習慣はいろいろと複雑な要素の積み重なりでもあるので,場所や時代によって大きく変化することもあり,また,儀式などでは古風なものが強固に守られていることも少なくありません.
 現在でもラオスや北部タイあたりでは糯米のほうが粳米よりも高く評価されるということです.その一方わが国でも,『風土記』などでは餅を時には神格化しているような記載もあるのに,その一方では,粳米を粉にひいて(現代の「上新粉」に当るわけですが)水で練ったもの(シトギ「粢」といいます)を神前に供えたり,路傍の道祖神や石仏に塗ったりする習わしがありました(もちろんそのあまりは人間サマの口に入るわけですが).現在の「米粉パン」はこの「粢」の再登場といえるかも知れません.
 トウモロコシなどでも,原産地の中米では糯種の発生がしばしば見られるらしいのですが,現地の人々にはあまり高くは評価されないとのことです.やはりアミロペクチン主体の食品のテクスチュアをよしと賞味する人間の集団が存在しないと,わざわざ選抜育成にまでは至りにくいのでしょう.

Q.

 わが国の鉄鉱石は,江戸時代まではほぼ需要をまかなえるほどの供給量があったといわれるんですが,本当にそんなに採掘可能だったのでしょうか?

A.

 明治になるまでのわが国の鉄の原料のほとんどは「砂鉄」でした.これを集めて「玉鋼」の形とし,刀などの用途にあてるほか,鋳物用にもっと炭素分の多いものをも生産していたのです.これは漢土の製鉄とはかなり大きく違ったところで,かの地では金属鉄はもっぱら鑄造に当てられたようで,河伯(水の神)への供物として,巨大な鋳鉄製の牛の像を河床に埋め(同時に地盤固めの役割をも果たさせたのでしょうが)たものが,今日でも間々出土した報告があるようです.
 わが国でも中国山地一帯には豊富な砂鉄鉱床があり,出雲や美作などの各国には年貢を稲の代わりに鉄で納める地域があったぐらいですが,離島などではそうもいきません.琉球,特に八重山あたりでは鉄製の鍋釜といえども大変な貴重品で,炊飯など土器を利用するしかないが,数日で使えなくなるという記録も残っています.
 江戸時代には漂着民の記録がいろいろ残されていますが,その中に,今のフィリピン北部らしいバタヤン(バシー海峡周辺?)から,かなりの集団が九州にやってきた記録があるそうです.言葉もロクに通じない面々ばかりだったけれど,石を使って海図を表現したり,いろいろと手を尽くした結果,島伝いに鉄を求めてやってきたことがようやくわかった.でも気候や食習慣があまりにも異なっていたためか,続々と病に倒れ,やがて清国の便船によって長崎から帰国出来たのは,やってきた人数の1割にも満たなかったということです.いかに離島の鉄不足が(わが国に限らず)深刻であったかが推察できます.