第166回
山崎 昶先生が答える化学質問箱
回答者プロフィール
やまさき・あきら
1937年生まれ.東京大学理学部化学科卒業.
元日本赤十字看護大学教授.
おもな著書に「化学の常識なるほどゼミナール」「落語横丁の化学そぞろ歩き」「機密保持と化学」「ミステリーの毒を科学する」,訳書に「化学するアタマ」「先生を困らせた324の質問」「サイエンティスト ゲーム」「続 サイエンティストゲーム」など多数.
山崎 昶先生が答える化学質問箱
第166回 (2016/12/27更新)rss
Q.

「転失気(てんしき)」って何のことですか?

Q.

ナツメヤシ,「デーツ」と呼ぶ方がいいのかも知れませんが,ずいぶん前からわが国にかなりの量が輸入されているというのに,あまり店頭で見掛けることはないですね.一体どこで消費されているんでしょう?

Q.

「ケーソン病(潜函病)」,最近はあまり耳にしなくなりましたが,以前は重大な問題だったと聞いたことがあります.でも本当に減ったのでしょうか?

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Q.

 「転失気(てんしき)」って何のことですか? 何か特別な気体の混合物らしいのですが.

A.

 これは腸内ガス,つまり「屁(おなら)」の言い換え(ユーフェミズム)です.落語の演題にもなっています.こればかりは単なる音声だけではなく,演者の表情やジェスチャと一体でなくては楽しめない演し物の一つでもあります.
 実はこの気体の成分は,人の健康状態によってかなり大きな変動があるらしいのですが,メタンや水素などの可燃性の気体が大部分であると以前から言われています.
 旧制高校のバンカラ学生達が,寮の風呂で仲間の放屁を水上置換法で集めて大きな風船に移し,これにマッチで点火したところ,大きな爆音と共に青白い炎を上げて燃えたという体験談は何人かの大先輩から伺った事がありますが,このような組成だとすれば確かに頷ける結果でもあります.
 その昔のフランスで,パリの寄席芸人の中にはいろいろと奇妙な演し物で名を売った連中がいたらしいのですが,中には「音楽肛門」を目玉とし,事もあろうにフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」を放屁音で演奏してのけるというものもいたそうです.熱狂的な愛国者でも居ればサーベルでバッサリなんてことになりそうですが,よろずおおらかだった昔のこと,どうやら不問に付されておしまいだったようです.
 江戸時代きっての才人の平賀源内は,戯作の一つとして「放屁論」を上梓していますけれども,やはり単なる芸人の座興とは違って,ありあまるインテリジェンスのもって行き所に困ったあげくの筆のすさびとして感じが強く出ています.

Q.

 ナツメヤシ,「デーツ」と呼ぶ方がいいのかも知れませんが,ずいぶん前からわが国にかなりの量が輸入されているというのに,あまり店頭で見掛けることはないですね.一体どこで消費されているんでしょう?

A.

 アラビアンナイトなどにも度々登場するナツメヤシ(棗椰子)は,学名をPhoenix dactylifera というのですが,雌雄異株のかなり巨大な喬木で,その果実が「デーツ」なのです.この学名はギリシャ語の「指(δαχτψλοσ〔dactylos〕)」に由来している(異説もあるらしい)のですが,果実の形状を巧みに表現しています.つとに紀元前6000年頃のメソポタミアやエジプトでは栽培が行われていたということですし,聖書に登場する「棕櫚」も,実態のほとんどはこのナツメヤシを意味するというのが定説のようです.
 上述のようにかなり古くから知られた優れた健康食品でもあります.でも,そう言われてみるとあまり青果店などの店頭で見掛けることはないようですが,これは加工原料として中近東方面から輸入されていて,そちらの用途がどんどん拡大しつつあると言うことなのでしょう.
 もともと宗教的な意味合いもあったものらしく,伝説でははるか昔,キリスト教のさる聖者が弟子に向かって一粒のナツメヤシの種子を与え,「この地(沙漠の真ん中)にこの種を植え,日々潅水を怠らずにきちんと育てよ」と命じたことがあったのだそうです.弟子は聖者の指示を忠実に守り,かなり離れた人里まで日々水を汲みに通って,枯らさぬように世話をしたところ,やがて発芽した木は大きくなり,深くまで伸びた根は地中深部の滞水層まで届いたのかどんどん葉も茂って木陰を作り,豊かな果実を実らせて,聖地として人が集まるようになった(つまりオアシスのミニ版を作るのに成功した)という話が残されています.この種子が雌株のものであったのは幸いでした(紀元前から人の手による授粉に依存しているものの,かなり遠距離からでも風で花粉が運ばれて結実に到るのだそうです).でも「砂漠緑化」など,生なかのお題目を唱えるだけでは出来ないという証明みたいなものです.
 北アフリカのある地域では,ナツメヤシの木は貴重な財産なので,婚資として「ナツメヤシの木何本」という条件が出されるような場合もあったそうです.
 わが国でのナツメヤシの実の加工用の用途は,ウスターソースなどの少し粘性のある調味料の材料がメインらしいのですが,意外なことに広島風お好み焼きのソースには欠かせない原料となっているという話を伺いました.以前は林檎のペーストがもっぱら使われていたのですが,あるとき試しにこちらを使用してみたら意外に好評だったので,段々こちらに切り替え多メーカーが増えてきているとのことです.

Q.

 「ケーソン病(潜函病)」,最近はあまり耳にしなくなりましたが,以前は重大な問題だったと聞いたことがあります.でも本当に減ったのでしょうか?

A.

 ケーソン(caisson)はもともと,フランス語の箱形の二輪馬車の特定のタイプを指していたようですが,現在では地下に大きな構造物を設置する際の巨大な鋼鉄製,あるいは鉄筋コンクリート製の箱を意味することがほとんどです.底の抜けた巨大な箱状のものを地上で構築して,内部を掘鑿して地面に沈めてゆく方式の「オープンケーソン」と呼ばれるものと,海中工事や軟弱地盤の場合などに適用されるニューマチックケーソンの二種類があり,後者の場合にはケーソンの下部に加圧した掘鑿室を設けて,ケーソン底部が安定した地層に到達するまで,掘鑿室から下方へと掘り進めることになります.こちらが「潜函」とも呼ばれるもので,「潜函工法」というのはその昔の水中土木工事の花形でもありました.
 わが国でも,明石海峡大橋の基礎部や,東京湾横断道路などの沈埋トンネル部分などの構築には大活躍しています.ただ,深い水中とバランスが取れるだけの高圧が必要とされるため,この掘鑿室で作業する人間の血液や組織液にも,高圧の気体(以前は圧搾空気でしたが,現代ではヘリウムと酸素との混合気体)を供給しているのです.
 さすがに自動機械(ロボット)などの導入によって,高圧下での作業を強行しなくてはならないケースは減りつつありますが,それでも,時と場合次第ではどうしてもこの潜函法が使われることになっています.
 高圧の空気がこの圧力と平衡状態にある人体の中で,圧縮状態になっている間は,溶解度も上がるので別にさほどの悪影響を及ぼすには至らないのですが,地上に戻るためにはどうしても減圧処理が必要となります.この際に血管の中などに気泡が生じて,これが血流をブロックしてしまうと大ごとになるのです.血管壁を通過しにくい窒素などがうっかり脳血管の中で血栓状態をつくりだすと,時には生命の危険すらあるのです.これが「潜函傍」の原因で,窒素の代わりにヘリウムが潜水用ガスに用いられるようになったのも,血管壁の透過能力がずっと大きいために気泡が血流をブロックする危険がはるかに小さくなることを利用しているのです.
 もっとも過信は禁物で,ウィキペディアなどによると,西伊豆の各地でダイビングを楽しんだ後,車で箱根越えをして帰宅途中にこの潜函病を発症する例が昨今増加傾向にあるのだそうです.